認定NPO Living in Peace代表の慎泰俊が今会いたい人と、これからの働き方・子どもの未来について語ります
第3回
2013年11月23日(土)
乙武 洋匡さん × Living in Peace 代表 慎 泰俊
【前編】僕が教師になった理由、そして教師を辞めた理由
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自己責任論の不思議 「みんなちがって、みんないい」
慎  :これまでは家庭のことでしたが、子どもに対しては、とくに大きな問題を起こしてしまった場合などどのように接しようようとされていらっしゃいましたか。 乙武 :それについては、そもそも僕が教育分野を志した理由と大きく関係します。大学卒業後、僕はスポーツライターとして活動していたのですが、その頃、11~12歳の少年少女が命を奪う側に回るというとても悲しい事件が相次いで起きました。それを知ったとき、もちろんそれらは許される行為ではないし、マスコミも大騒ぎしました。でも、僕は被害者である少年少女だけでなく、加害側の少年少女に対しても「かわいそうだな」という思いを抱いたんです。 慎  :はい。 乙武 :生まれた時点で、犯罪者になってやろう、人殺しになってやろうと思う子どもなんかひとりもいないはずですよね。それなのに、彼らは11年、12年という短い年月のなかで、様々な要素・要因によってそうした事件を起こさざるを得ない状況に追い込まれてしまった。でも、それは周りの大人の言葉がけや気づき、軌道修正によって防ぐこともできたのではないかと思いました。そうした思いから、ライターから教員へと大きく舵を切ることになったのですが、こうした僕自身の志向から分かるように、僕はただ断罪する、ということにはあまり意味を見出していないんです。たしかに自分がしたことの重大さをしっかりと認識させることは大事だと思うけれど、そもそもその行為を起こすに至った原因へのアプローチがないなら、それはただ表面の傷をちゃちゃっと消毒するようなものだ、と思うんです。 慎  :すごく同感です。僕も、何か悪さをした人がいたとして、実際に話を聞いてみると、本人のせいでないとは言い過ぎですけれど、最後に意思決定の責任はあるにせよ、環境や生まれ育った環境の要因がはるかに大きいと感じることがよくあります。だから、僕がひどいことをされてもあんまり怒れないんですよ。この人たぶんなんか事情があったんだろうなと思い、そして、むしろ自分なりに分かりたいなと思う。ただ、私のような考え方はきっと少数で、相手が子どもでも、ましてや大人では、もう全てがその人のせい、その人の自己責任という話になりがちですが、それにはすごく閉塞感や生きにくさを感じています。

対談中の乙武さん

乙武 :僕はこれまで「みんなちがって、みんないい」というメッセージをずっと発信してきました。「ひとりひとりがジグソーパズルのピース。そのひとつひとつはいびつな形。きれいな、完璧な形ではない。けれど、こっちの出っ張りとこっちの引っ込みを、またこっちの出っ張りとこっちの引っ込みを組み合わせ次々つなぎ合わせていくと、最後に1枚の美しい絵があらわれるんだ」――そして、これが僕の理想のクラスでもありました。自分が得意なことを活かしあいながら、苦手なことは補いあいながらやっていければ、すぐくいいクラスになるんじゃないかなと思ったんです。でも、これはクラスだけのことではなくて、地域や、組織、会社、あるいは家庭といった、すべてのことに通じる考え方だと思っています。

慎  :そうですね。 乙武 :もしも僕らがひとりひとり完璧でいられるなら、自己責任論でもいいかもしれません。でも、やっぱり僕らはデコボコしていて、苦手なところがあり、そこを補ってもらわないと生きられないところもある。でも、人より得意で、それで誰かの役に立てるというところもある。そう考えれば、もちろん最低限の責任は必要だけど、それでどうしても足りないところは誰かに手伝ってもらう、そういう世の中でないと無理があるんじゃないのかな。 慎  :自己責任論はどうして出てくるんでしょうね。 乙武 :自己責任論をとなえる人にありがちなのは、自分は誰にも手伝ってもらってない、自分は助けてあげる一方だ、という思い込みだと思うんです。でも、このことに関して、僕は母に言われてハッとした言葉があるんです。母方の祖母は3年ほど前に亡くなったのですが、ずっと母が自宅で面倒を見ていて、最後には認知症も始まり、かなりつらい時期がありました。そんなときに、僕が「それほど大変なら、デイサービスや介護施設も選択肢に入れたら?」と言ったんですが、そのとき母は「ううん、順番だもの。」と答えました。「順番」という言葉の意味が分からなくて、思わず「どういうこと?」と聞き返したら、「私は60年前、自分で言葉もしゃべれず、ごはんも食べれず、トイレに行くこともできなかったのよ。そのときの世話を全部お母さんがやってくれたおかげで、私はここまで育つことができたの。それから60年がたって、今度はお母さんが、自分で言葉をうまくしゃべれず、食事をとることができず、トイレに行くことができなくなったよね。だから、今度は元気な私がお母さんのお世話をする番。これは当たり前なことじゃないかな?」と言われて、「なるほどな...」と思ったんです。 慎  :なるほど。 乙武 :たしかにきれいごとだけではすまない部分はあるけれど、ただ考え方として母が言ったことはすとんと僕の心に響きました。僕は今まで、「みんなちがって、みんないい」、横並びの関係でみんなが助け合えばいいじゃないかって思ってきたし、今でも思っているけれど、そうした横軸に加えて母は縦軸という時間の概念を僕に教えてくれたんです。同じ人間でも、できる時期もあればできない時期もあるんだ、って。 慎  :たしかにそうですね。子どものときの記憶はあいまいだし、社会的に独り立ちしてからの時間がはるかに長いので、僕らはかつて助けてもらうしかない存在だったことを忘れがちですよね。でも、それを忘れないお母さんはすごい。本当の意味で賢い方なのだなと感じます。 乙武 :本当に大切なことを教わった気がします。


特定非営利活動法人Living in Peace(理事長:慎泰俊)は、
児童養護施設に暮らす子どもたちの養育環境の改善や進路支援を行っています。
http://www.living-in-peace.org/chancemaker/


慎 泰俊 Taejun Shin
1981年東京生まれ。
朝鮮大学政治経済学部法律学科卒、早稲田大学ファイナンス研究科修了。モルガン・スタンレー・キャピタルを経て、現在はPEファンドの投資プロフェッショナルとして様々な事業の分析・投資実行・投資先の経営に関与。
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